落語は最小限の表現

尊敬する人ができました。先日テレビで見た落語家、春風亭昇太さん。尊敬というには、まだしっかりと彼のことを知らないが、テレビで語っていたお話を聞いて、「落語の奥深さ」のようなことを教えてもらった気がする。転じてそれは、「表現の奥深さ」でもあるなと。
春風亭昇太さんが言うには、「落語は最小限の表現舞台である」という(少し言い方は違ったかと思いますが…)。映画やアニメや音楽だと、必ずしも俳優が見えたり…声が聞こえたり…そこには先入観が存在してしまう。嫌いな役者が演じていたら、その話を3割引くらいで聞いてしまう。日本語吹き替えの映画を見て違和感を感じてしまうと最期まで引っかかってしまうように。
しかし、落語は少し違う。落語は話と扇子の2つだけですべてを完結させている。残りの部分は、見る人の頭の中で創りあげていくものだとしている。だから、落語家の道具は、あの扇子1つだけなのである。見る人に考える余地余白をもうけるために、不完全な状態で見せている。扇子でうどんを食べる表現をすると、まるで器までも見えてくる。実際には左手を添えているだけでも、そこ(その物語)には確かに存在する。…ように見えてしまう。でも、その器の様相は、見る人の頭の中で作られている。見る人に委ねている。話と扇子だけでそれを創りあげている。
極限の影の役、そして徹底した第3者として、語り部として笑い話や物語をつくっている落語家という人たちの考え方、落語が日本で生まれた経緯がなんとなく見えた気がする。

それぞれの景色

今、自分がどこで何をするか。何のために。
周りの人たちが様々な場所へ散らばり、それぞれが何かの目的に向かって進んでいたりする。元々は同じ地域で育ち、似たような環境にいた。それでも、今はそれぞれが別々の道を歩んでいる。自分にないコトや自分が進んでいない道を聞いてしまうと、ないものをネダリ疎んでしまったりする。その動いている距離を聞くと感化されずにはいられない。
だからと言って、同じ場所に行き、生きても、きっとその景色は自分が見えるモノと他人が見えるモノとは違うはずだから。ひとりひとりの環境によって、景色は何万通りにも色を変えてくれる。
自分の針路は自分で決める。舵は自分でとる。

迷子の財布探しています

そうです。すごくすごく大切にしてた財布を落としてしまいました。一枚の革から作った、すごく思い入れのある可愛い財布を…。ヌメ革がちょうどいい感じでアメ色に変化してきた矢先の出来事。中身のお金より、カードやら何やらより、財布本体がショックです。どっかのブランド品とかに比べたら、まったく高価なモノではないし。すごい機能性を持ってるわけでもない。ただただ、ごく、普通の革の長財布。それでも手間ひまかけて、何度もパターンを描き直して、何度も指を針でさしながら、探り探りで完成したあの子にもう会うことはできないと思うと…へこみます。
というコトで、見かけたら教えてください。迷子の財布を探しています。

傷や汚れを拒むモノは道具なのか

人が使うモノなのに、その人の手垢や汚れを拒むような、研ぎ澄まされた美しさのモノがある。キレイに保とうとする人のココロはとっても良いことなんだけど、ピカピカだけが美しいモノっていうのも、いかがなものか。
いや、取り分け、きたないモノ好きなわけではないのです。金属のサビも、木のヒビ割れや反りも、布の汚れも、汚く見えることは確かだが。
そもそも、「いいモノ=キレイなモノ」 である必要はないと思うし、「キレイなモノの逆が、きたない」って考えには、僕は至らない。
例えば、美しい女性。それ以外の人を全員、「きたない人」なんて失礼極まりない。モノもまったく一緒で、そのモノの性格や、触れ合った時間、生い立ち…なんやかんや。
汚れが多少あったって、先に述べた要素なんかで、ずっと好きでい続けられる…。なんか素敵なこと

楽観的

目の前に起きてる憂鬱なことや苦悩よりも、それを越えたであろう、幸せ地点を見てる。それを常に見てる人が、世の中的に「楽観的」「ポジティブ」って呼ばれる人なんでしょうね。辛いコトを「通過点」として捉えてる。それは、つまり、超えることができる苦悩だって思ってるってコト。